−田中音吉の道標−
旧鈴鹿郡一帯の古い道筋の角や社寺境内に移されて残る高さ60センチ程の花崗岩で作られた道標は、亀山製絲の創業者、田中音吉が大正3年にたてたものである。以下は、亀山市歴史博物館の小林学芸員から教えていただいた『三重県紳士録・大正四年刊』から引用した。
田中音吉は鈴鹿郡亀山町西町に嘉永6年(1853)1月13日に生まれた。若い頃から父の営む牛馬仲買商を継ぎ、傍ら米穀製茶の仲買を行っていた。30歳頃より生繭仲買業を開始して各地の養蚕地を巡り、資産を増やした。その間、生糸の輸出の将来性に着目し、自ら製糸場を経営しようと考え、東京・埼玉・群馬地方の製糸工場に出入りしてその状況を研究し、明治20年6月、郷里に帰り、資金1千円を投じて座繰器械25台を据付け、鈴鹿郡初の製糸工場を設立した。設立当初は器械の不完全なことや、女性従業員の未熟さから不良品も多く、損失を招くこともあったが、妻女と共に従業員を指導・養成しながら事業を続け、明治25年(1892)頃から各地で用いられていた蒸気器械を据付け、釜数も増やして50釜に、さらに熟練した女性従業員を雇入れるとともに、製糸方法を改善して事業は好転する。
|
明治28年(1895)、釜数を増加(当時の女性従業員数86人)して事業を拡張し、併せて製品の改良を図る。また、牧田村に甲斐鈴鹿社(女性従業員50人)を、関町に中村製糸工場(女性従業員50人)を設立した。この時期、各所に小規模な製糸場が起業して、郡内の養蚕業は発展する。 明治31年(1898)、5年前から兼営していた羽二重伝習所において養成していた伝習生を使い、織物共同社を組織して織物の製造を開始した。ところが伝習生が増えず、事業が軌道に乗らなかったためにこれを中止する。ただ、これを機に農家の副業としての機織業がこの地に普及した。 |
音吉は「事業は農夫の心事を以て経営すれば蹉跌するようなことはない」と常々言い、徒らに利益のみに走らず、平生から粗衣粗食に甘んじ、誠実に怠ることなく事業に専念した。また、女性従業員の待遇を優遇する反面冗費を節約して堅実経営を進めた。業務で出張の際にも必ず沿道の製糸工場を視察し、さらに従業員を同業者に派遣して見学させて現場からの業務改善を推し進めた。
明治44年(1911)7月、経営する製糸工場を母体にした亀山製絲株式会社を設立し、専務取締役に選出される。また、公共のためにも力を惜しまず、明治45年に亀山小学校生徒の奨学基金を寄附し、大正元年郡道亀山道の改修に土地を提供、大正2年秋暴風雨による罹災者救助のため義捐金を拠出した。さらに道標に関して、『三重県紳士録(大正4年刊)』は「郡内各町村道路の分岐点に指導石標を建設し以て行旅に便にし」と、当時の鈴鹿郡一円に建立されたことを記している。
大正5年(1916)8月24日没。享年64歳。
(画像は『目で見る鈴鹿・亀山・関の百年』から「田中製糸場」の製品ラベル)
101右 田 村 大正三年 (亀山市歴史博物館前庭・68.5×16.0×15.5) |
|
102.右 市ケ坂 住山 大正三年 (亀山市歴史博物館前庭・67.0×20.0×19.0) |
|
103.右 亀田 椿世 中 野登村 左 住山 ふじの寺 道 大正三年 (亀山市歴史博物館裏駐車場・110.0×20.0×19.5) |
|
| 位置図はこちらをクリックしてください。 | |
| 150. 右 菅 内 道 左 はたけ 大正三年 (亀山市南鹿島町、鈴鹿川左岸堤防下 |
![]() |
| 151. 右 阿野田 道 左 井 尻 大正三年 (亀山市南鹿島町、鈴鹿川左岸堤防下 |
![]() |
| 152. こもの道 大正三年 (亀山市南鹿島町、鈴鹿川左岸堤防下 |
![]() |
| 153. 右 國 府 道 左 和 田 大正三年 (亀山市南鹿島町、鈴鹿川左岸堤防下 |
![]() |