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O.日永の東海道
従是南神戸領
(四日市市日永4・161.0×21.5×10.0) |
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四日市宿を発ち、京へと向かう東海道は、浜田・赤堀村の家並みを通り、鹿化(かばけ)川を越えると日永村へはいる。村域の街道の距離は約2.3キロ、家並みは南市場の一里塚を過ぎるあたりまでの約1.1キロである。川を過ぎた道の両側には、(初めは砥餅といわれた)なが餅などを売る茶店が建ち並び、下り立場と称された。
さらに(今は暗渠の)大宮川を渡ると、白玉を売る菓子屋が軒を連ねる。天白川の手前、興正寺の山門の北には「元祖日永足袋」の看板を掲げた足袋屋があり、今の日永小学校の入り口付近では日永団扇を売っていた。
一里塚を過ぎて南へ、道の両側の土手に植えられた約300メートル続く松並木を過ぎると泊村である。村内の街道は、茶屋・宿屋・両替屋をはじめ、味噌屋・酒屋・すし屋・米屋・八百屋・桶屋などが建ち並び、旅人だけではなく、近在の人たちのショッピングセンターとなっていた。また、道を横断する猿法子川と小屋下川の2つの川は、水無川で橋は架かっていなかった。街道は東海道と伊勢参宮道の分岐点、日永の追分へ向かう。
さて、日永村は泊村との入り組みが多く、また、村内においても相給という複数の領主下の時期もあり、複雑な所領関係を呈していた。『ふるさと日永・日永郷土史』から、日永村・泊村の江戸期における領有関係の推移を記してみる。
| 慶長6年 (1601) |
慶長20年 (1615) |
元和5年 (1619) |
明暦2年 (1656) |
宝永6年 (1709) |
正徳4年 (1714) |
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| 日永村 | 大瀬古 | 桑名藩領 | 藤堂藩領 | 藤堂藩領 | 長島藩領 | 天 領 |
大和郡山藩領 |
| 天白 | |||||||
| 中の瀬古 | |||||||
| 南市場 | |||||||
| 追分 | |||||||
泊 村 |
紀 州 藩 領 |
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| 延享3年 (1746) |
明和6年 (1769) |
享和元年 (1801) |
天保14年 (1843) |
慶応4年4月 (1868) |
慶応4年7月 (1868) |
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| 日永村 | 大瀬古 | 神戸藩領 | 神戸藩領 | 長島藩領 | 神戸藩領 | ||
| 天白 | 天 領 |
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| 天 領 | 大津県 | 度会府 | |||||
| 中の瀬古 | |||||||
| 神戸藩領 | |||||||
| 南市場 | 神戸藩領 | ||||||
| 追分 | |||||||
泊 村 |
紀 州 藩 領 |
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文化3年(1806)の『東海道分間延絵図』は、鹿化川左岸(赤堀村側)に御領傍示杭、右岸(日永村側)には私領傍示杭が、さらに天白川の北と字川田川の南には御領傍示杭が描かれており、入り組んだ領地の境界を示す杭が当時は立てられていた。
現在、日永4丁目 村木真氏の玄関先に移されている、「従是南神戸領」の石柱もそのひとつである。3面に同字句を刻み、いまは縦に2分されて立てられ、残り半片はさらに横に2分されて足下に横たわっている。
なお、鈴鹿市国分町の菅原神社の境内にも、東海道、釆女一里塚付近にあったものであろう、「従是西神戸領」と刻まれた同種の私領標示石がある。(『歴史の道調査報告書・東海道』、『四日市市史・第6巻』、『ふるさと日永・日永郷土史』より)